学習塾の冬の時代が来ることは、チャイルドショックからだけでなく、チェーン塾の急増、大手資本の参入等、様々な要因から引き起こされた過当競争の結果として早くから予想されていました。
そして数年前からは、生徒募集のチラシを新聞に折り込んでも予定の人数が集められないことが常識となっています。
この傾向は、予備校や学習塾が過密している都市に限らず、全国的なものです。このような状況において、生徒を集め、休退会を防ぐ唯一の手段は“指導成果を上げる”ことでしかなく、これはこの仕事に携わるすべての人々が痛感している分かりきった結論です。
ところで、全ての生徒を確実に伸ばすためには、帰結として個別指導にたどりつくのですが、一口に個別指導といっても、間違った、または未熟な個別指導は、1対1で個別に教えすぎてしまいます。
その結果、最初は親切だ、丁寧だと喜んでくれて、成績や学力が上がったとしても、家庭教師を付けた子供のように生徒は次第に依頼心が強くなり、自分の頭で考えなくなり、成績や学力は頭打ちの状態で一進一退を繰り返すようになります。
また、教室の雰囲気についていえば、ただ座って先生に教えてくれるのを待っているという生徒の受け身の学習姿勢は日々エスカレートしていきますので、やがて教室内は生徒の質問と講師の教える声で騒音に満ちてきます。
正しい個別指導は、原則として“教えない”指導ですが、学年の問題や学力レベルの問題、勉強する姿勢、習慣の問題、性格上の問題等いろいろな問題要素があり、単純ではありません。
正しい個別指導は、一斉授業の場合と比較して、個々の生徒の学力や成績を、驚異的に伸ばします。
厳しいことですが、教える努力は評価されず、伸びたことだけ評価されます。
文明の進歩は、凪の浜辺のさざ波のようにひたひたと静かに、しかし絶え間なくしかも鉄の強引さを以て人類の生活様式を変貌させ続けてきました。
その過程で、政治や経済、宗教、思想、哲学、利害、その他あらゆる名目を借りて変貌を推進しようとする“新”と、原点へ戻れ、自然へ回帰せよと憂う“旧”との攻防も続けられてきました。
教育の分野は、そうした新旧の攻防戦の渦中に巻き込まれることが最も少なかった分野のひとつであったと言えましょう。
ハーバード大学のコンクリートの教室の中でも、
ボルネオのジャングルの中の丸太の教室の中でも、
インドの奥地の漆喰で固めた教室の中でも、
弟子が問い、師が語り、学ぶ、
すなわち、
なまの人間がなまの人間に問い、
学ぶことが学問である
という根本様式は、
時と所を問わず、つまり、世界中のあらゆる場所で
太古から現代まで連綿と続けられてきて、
ほとんど変化していません。
勿論、様式を入れる器、すなわちコンクリート、丸太、漆喰、はたまた冷暖房の設備や什器備品は文明の進歩により大きく変貌してきているのでしょうが、
文明が教育をどこまで変え得るか
と考える時、問い学ぶ人と人とのふれあいの中で学問が昇華し、教育の結果が結実してきた人類の永い歴史が無言の裡に証明している厳然たる事実から生まれた単純な法則を塗り変えようとする徒労の勇気を持てる人は少ないでしょう。すなわち、教育は、
手塩にかけてなされるべきこと
であり、手抜きをしようとするすべての工夫は水泡に帰するであろうと予想されます。
母が幼子に、指を折って数を教え、手を添えて文字を教える、肌を接したぬくもりの教育に代行しえる機器が完成されることがあるとしても、それは予想もできない遠い遠い未来の夢。安直に期待できることとは違います。
世界最高峰と目される学者でも、貴重な研究と思索の時を中断して後輩の指導のために教壇に立たねばならない一見無駄に見える行動も、録音テープやテレビ画面の再生では代行ができない、人と人との問い学ぶ接触の場なくしては教育や学問が高揚されることがないという大原則が、議論の余地なく暗黙のうちに了解されているからでしょう。
稔るほど頭を垂れる稲穂のように、学習や学問が奥深い境地に分け入るに従い、ひとつの問いに対する回答の選択肢は千々に乱れてしまう。たくさんの要素を配慮すればするほど様々な視点から肥えた無数の判断が氾濫してしまう。
コンピューターの二者択一方式では進めることができない学問であるからこそ、それを説く師がテープやビデオで代行することができない学問であるからこそ、世界中いたる所で生身の人間が教壇に立ち、語り続け、数千年かけてもこの様式が変わることがなかったことを歴史が事実として証明しています。つまり、平たく一等両断すれば、
勉強はクイズではない
という原理を忘れて教育システムを構築しようとすると、そのシステムは早晩行き詰ってします。パソコンの数万倍のビット数を容する人間の頭脳を、数万分の一のビット数しかないパソコンが育てられるはずがないことを忘れ、学問が二者択一のコンピューターの世界とは異質の遙かに多次元の別世界の規範であることを忘れ、学問を遊戯に、教育を玩具に堕して、子供たちをヒトの数万分の一のビット数しか持てない単純なロボットに育ててしまう結果となる怖さに気づかずに人類の堕落(単純化)へのマシーン造りを進めることの罪深さ!
どれほどに成功に造られた高価な金属製の玩具よりも、野辺の草一本、虫一匹の方が眺めて触れて飽きない教育玩具であるという考察。どれほどに大がかりな仕掛けを設備して作り出した電子音楽でも、ヒトの声、小鳥のさえずりほどに子供たちの情緒を豊かに育むことは出来ないという考察。都会の喧騒とコンクリートジャングルの中で躾けられたパソコン坊やの心の暗さと脆さと、大自然の中で、野山を駆け回り日暮れで眠る太陽の子らの心の静けさと生気とを対比する考察。
こうした考察を積み重ねつつ思い惑いながら、私たちはひとつずつ、子供たちを教え育む際に配慮した方が良い小さな原則にある日気がつき、それをまた年月をかけて確認することを重ねてきました。例えば、曰く
紙にエンピツで書くことの効用
○×を超える採点 etc.
子供たちから、白い紙にエンピツで自己表現する創造の喜びを奪ってはならない。キーボードをたたけば規制の文字や記号が画面や紙面に踊りだしてくる安直なマジックが、子供たちの無限の夢と想像力を小さな鋳型へ押し込めていきます。
喜怒哀楽すら、パソコンのビット数の容量の中でしか膨れ上がることのできない哺乳類ホモサピエンス科ロボットになってしまう。これから何十年かかけて伸びる能力や才能の芽が鋳型からはみ出る分だけ削り落とされ、パソコンのビット数の枠内で成長を止められてしまう恐怖!
子供たちを○×で採点してはいけない。自然は、ヒトは、学問や教育は、○×ではなく、○と×の中間に無限のヴァリエーションがあって、そのひとつひとつに対し、正当な評価とコメントと考察と指導がなされるべきであって、二者択一の判断を基本とする機器にこれをゆだねることは“手抜き”です。私たちは、
手抜き指導をしてはいけない
ことを今こそ肝に銘ずべき時代に直面しつつあるような気がいたします。
”個別”は、まさに“手抜き”の正反対の極にある立場を守り続けてきました。一斉授業という“個”を黙殺した手抜き指導を憂えて、あえて手のかかる個別指導を続けてきました。手抜きしようとする新しい波は、更に手抜きするべく、ヒトを排除するもっと徹底した方向へ進んできています。私たちは、誇り高く、歯牙にもかけずこの新しい波を一笑に付して黙殺すれば良いのでしょうか。迷います。調べ、検討し、考え抜きました。そして、
結論!まだ早い。
と考えます。私たちが今指導している子供たちが大人になる頃までには、この素晴らしい人間の夢が実現されることを期待します。まだ、当分の間、泥臭く汗をかきながら、
人が人を教える個別指導
を磨いていこうと考えています。